人間は、常に自分の人生の中の何かが向上している事を確認できないと安心できない動物だと私は思います。
そしてこの「自分の人生の中の何か」とは、いわゆる「sense of being」、 日本語で言うところの「自分という存在」、言い換えれば「本当の自分」です。
この「自分という存在」の向上(成長)は、人間の場合対人関係に現れます。 その向上のゴールは、勿論「無条件の愛」でしょう。
この無条件の愛とは何かというと、他者と自己との違いを受け入れる事です。 それは神様がお手本を見せている通り、誰が何をどうしようと介入しない事です。
勿論、神様は、私たちが助けを本気で求めるなら助けてくれます。 でも、こちらが尋ねてもいないのに、余計な口や手を出す事は一切ありません。
また、神様の助け方は、私たちが求める答えを出してくれるのではなく、私たちが自分で見つける事が出来るように、此処を見なさい、あれを試してみなさいと言った様に方向指示をしてくれるだけです。
結局、私たち人間は、自分に自分で答えを出していくテクニックを経験から学ばなければなりません。
神様に尋ねる方法、神様の声を受け取る方法、神の方向支持を正しく解読する方法などは、全て経験を繰り返す事で、確実な物となっていきます。
この確実性が、私たちのいわゆる自信の基礎です。
また、経験とは、体験以外の何物でもありません。 そのために神様は、地球に住む私たちに、物質的な身体をくださったのです。 私たちの体を構成する細胞の一つ一つのバイヴレーションの組み合わせによって、神様からのメッセージを感じ取る事が出来る仕組みになっています。
ここで私が「神様」と呼ぶ物が実際になんであるかは、知りません。 空気中に漂う何か大きなエネルギーである事は、確かです。
私たちは一人で生きているわけではないという事を、感じ取れるかどうかが問題なのです。
わたしたちの細胞が、宇宙と母なる地球との間を繋ぐバランスの取れた波長を生み出せるようになる時、私たちはそれまでの人生おける不安のほとんどを解消できるでしょう。
山の頂上に住み下界を見下ろして生きる仙人のようなマスターたちの不安は、限りなく0に近いのかもしれません。 でも、人間として、対人関係の中に生きるのであれば、不安ゼロになる事はありません。
不安ゼロは、緊張ゼロです。 身体という物体を所有する限り、物理的にそれは不可能です。
多くの人が、不安ゼロを目指して瞑想をしたりヨガのようなエクササイズに一生懸命ですが、それは、人間を超えて神様のような、物理的身体の無い状態を目指すのと同じ事になってしまいます。それでは、死を目指す事になってしまいます。 それは人生を考える上で、とても理不尽です。
では、人間である事、つまり人生を楽しむ、幸せを感じるためには、どうしたら良いのでしょうか?
(続く)