今日は、久しぶりに旦那とごく普通の土曜日を過ごせた。TVをみたり、食事をしたリ、散歩に行ったりと、何となくゆったりしていた。
最近の私は、旦那と一緒にいる時が一番心が休まる。ああ、これがもしかして、いわゆる無条件の愛の状態かしら?と思うほどだ。私の心が彼の心に帰る。勿論彼の心も私の心に帰る。彼が私の心の家なのである。不思議な感覚である。体も心も、本当にリラックスして、彼とただ一緒にいる事で、ヒーリングされるのである。
私も一応ヒーラーと言う種類の職業に従事しているので、多くの人が真実の愛を求めて苦労しているのを知っている。またいろいろなヒーリング方法を経験し、学んできて感じたのは、ヒーラーもそのクライアントも、愛について、あるいはヒーリングについて、何か勘違いしているのじゃあないかと思うのだ。
私たちは、死んで物体である体がなくなるまで人間である。人間が生きているうちにエゴ0に到達するとは思えない。
エゴ0の人間?そりゃあ、夢見る夢子になってしまう。超、非、現実的!
現実的とは何か、御存知だろうか?重力学の働く地球上における物体としての存在という事である。人間は物体としての自分を感受できなければ、人生を満足させられない存在である。何と言っても体が無ければ、他人に伝わる形で自分を表現しえないのだから、当たり前である。
このブログ集の中で何度も書いているが、私はエゴがいけないと思っていない。エゴのない人間はいないし、力学的に考えたって、エゴ0だったら中に浮いてしまって、グラウンディングなどできない。それじゃあ、幽霊になってしまう。
つまりエゴ0と、グラウンディングは、両方同時に人間の目指す人生のゴールにはなり得ないのである。
まず、肉体が存在する事自体がエゴである。森羅万象のエネルギーとの間に、自分の体というテリトリーをつくっているのだから。つまりエゴはある意味、色々な物事を分ける力とも言える。「貴方と私は違う。」と言うのは当然の事だけど、これもエゴである。
5月7日付けのブログの「べきべき人間」に陥ってしまうのは、自分はもしかして、愛されていない、価値のない人間なのではないか?という不安の気持ちからなるのだ。つまり心が愛に満たされていないければいないほど、「べきべき人間」に陥り易い。でも「べきべき人間」の真実は、愛されたい愛したい人間なのである。
また愛に満たされていないという事自体が、実はただの思い込みに過ぎないわけだ。
愛のコミュニケーションが上手く行っている時エゴは影になり、愛のコミュニケーションが上手く行かない時にエゴが光になる。
愛はいつでも存在するのだ。しかしながらそれが見えない、間違った思い込みを持った自分が同時に存在するのである。