自分の駄目な所を冷静に受容れる事の出来ない人は、駄目な他人を見ると異常にイライラします。「自分は棚に上げて・・・。」と言うヤツです。
お付き合いをしている彼氏(彼女)だったりしたら、最終的に別れ話になるでしょう。まあ、一生のコミットメントをしたわけではないし、この場合はそれなりに別れた方が前進できて良い場合の方が多いと、自分の経験から私は今でも思いますけど。
結婚するまでは、私も「駄目男」たちとつき合ってましたよ。ある霊感のある先生に「牧子さんは、駄目男が好きなんですねえ。」なんて言われちゃって。それで当時は、「駄目男と結婚して振り回されるくらいなら、一生シングルの方がプラクティカルで良いわ。」と思ってました。なんてたって、その頃は自分の中に駄目女がいるなんて思ってもいませんでしたから。
でも今から彼らを振り返ってみると、それぞれそれなりに私の成長をサポートしてくれていたんだなあっと、感謝出来るようになりました。
自分が小心者になり下がっている時は、それと同レベルの小心者の男と付き合って彼の臆病さにイライラしたり、自分が怒っている時は、怒っている男と付き合ってとことん喧嘩ばかりして疲れちゃったり、自分が駄目女の時は駄目男を選ぶ、あるいは引きつけるという事を学びました。その時その時の自分の人生のテーマを映し出す鏡のような男を、選ぶんですよ。
それで自分がそのレベルを克服できると、いつまでも同じ低いレベルにスタックしたまま前進しない彼らが嫌になっちゃうんです。まるで自分は先に山の頂上に達して、なかなか上がって来ない男達を上から眺めて溜息をついてしまうような、そんな感じです。それでその男は止めにして、次に進むわけです。
で、自分の駄目女と向き合わない限り、大丈夫な男は現れないわけです。
そういう自分の駄目女追放修行の真っ最中に、旦那になる人とであったわけです。旦那さんは、それまでの駄目男たちみたいなヤワではなく、なかなか手強いんですよ。彼はいつも少し私の先を歩いている人です。
人生一生お勉強なので、勿論彼と出会って修行が終わるわけではなく、彼と結婚した事で、私の人生における The Highest and Last Spiritual Practiceのための素晴らしき伴侶を得たという事です。
結婚してから、伴侶とともに修行する事によって以前にもまして充実した人生を送る事が出来るようになりました。四六時中、目の前の鏡に映った自分に向き合う毎日ですから。
今では私も散々修行してきたお陰で、彼の駄目な所を見ても変にリアクションを起こしてイライラするのではなく、そっと側にいて彼が自分の駄目部分を克服するのを見守る事が出来るようになって来ました。そうする事で、人生と意味を深く理解できるようになり、自分の心が広く大きく開いていくのを実感するのです。
私が自分の駄目部分と付き合わなければならない時は、彼の存在が最高の自分を癒す時と場を与えてくれるのです。私が自分の馬鹿さ加減に苦労していると、彼は自分の痛みをハグするように、黙ってハグしてくれるわけです。
2,3ヶ月まえに彼が病気になり苦しんでいた時、隣に座って背中を摩りながら、まるで自分が病気であるかのように苦しかったのに気がつきました。自分も彼の痛いところと同じ所が痛いような気がしてきてしまうんです。それでついついああしろこうしろと、煩く言いたくなる自分にも気がつきました。
なあるほど、こうして今の世の中が痛みから逃げたくなる、駄目男も駄目女も無視する、皆大丈夫なフリをして生きる社会になって言ったんだなあ、と理解できました。
特に親子の関係だったら、自分の一部だったお子さんが苦しんだり痛んだりしていたら、黙って彼らの生命力を信じ、ただ側にいてあげるのは、かなり耐え難い事でしょう。
(続く)