脱皮をした瞬間は、目から鱗の状態になる。
若い頃の脱皮は自分がどんどん前に進んでいくような感じがしたが、最近の脱皮はチョット違うのだ。この夏くらいから徐々に始まり、先週辺りに大きな脱皮にいたった感があった。以前のように要らない皮を脱ぎ捨てて何か違った人になるというのではなく、実はこの厚い皮の中に前からいた自分に気がつくと言った感じである。この脱皮の時のエネルギーの方向が自分から外向きなのかと思っていたら、実は自分の中心部に向かっているのが解った。まるで童話の中の蛙姫が魔法からさめて姫に戻る、ああいう感覚だ。
今までいかに自分の勝手な思い込み、つまりイリュージョンを生きてきたか良く解った。この「解った」と思う瞬間であるが、解ったと自分では思っていても、それが本当に自分と言う存在の一部になるまで、何度も解っているかどうか試される。誰に試されるのかって?・・・・・もうそれは、神様にとしか言いようがない、見えないエネルギーによってである。
またか・・・と思うような時が何度も来るが、そんな時卑下してはいけない。しょうがないなあ・・・くらいに軽く流せるようになるのも、修行の一部である。
何度か試されて行くうちに、ああこれで当分テストはないなっと確信する瞬間があるのだ。それが今回の大きな脱皮だった。まあ、細かい脱皮が続いたので、個々でちょっとお休みを頂いたわけである。
脱皮を繰り返すと、脱皮の起こる手順も何となく感で察知出来る様になる。
重要なのは脱皮して終わりでなく、脱皮して与えられた新たな能力を次のテーマにどう生かすのかが問題である。人生一生勉強というのは、そういう事だと思う。
脱皮をする度に、当然次の脱皮までのテーマはアドヴァンスになっていく。もっとエキサイティングで、もっと複雑で、もっとチャレンジングな次のハードルをどうパスするのか、チョットスリリングで恐いけれど、エキサイティングで楽しい。
自分の人間としての成長以上に、面白いサブジェクトはこの世にはない。
脱皮によって発見できる自分のさらなる能力、つまり未来への可能性を感じる事は、素晴らしい満足感を与えてくれる。
私は2週間くらい前に、やっと50歳になった。私にとって年を経る事は、嫌な事ではなくむしろ一体私はどんな人間になって行くのだろう?、私の人生はどんな物になって行くのだろう? という好奇心を駆り立ててくれるちょっとお洒落な刺激なのである。特に私の好奇心のテーマは、「健康で幸せな人生」を築く方法なので、数の上で歳をとっても人間として老化・硬化しない事がゴールである。
今の所、私がエスタブリッシュしてきたMakiko Methodは、なかなか良かったかなあと自負している。
ニューヨークに来てまもなく、ダンサーとして活動していた私は、ニューヨークのパークアベニュー(大手の会社のビルが林立する辺り)を闊歩する女性達が超高級ブランドのスーツ、鞄、靴に身を包み胸を張っているにもかかわらず、眉間に立て皺を寄せて不愉快そうに歩くのと、NYU(ニューヨーク大学)周辺のダウンタウンを歩くお年を召した女性達が、キッと口を結んで目だけ笑って、いかにも人生に疲れて苛立っているのを見て、自分が歳をとったらこういう風にはなりたくないし、ならないと自分の心の奥底で決意したのが、今思えばMakiko Methodの初めだったのだ。
どうしたら人間は、楽しく幸せな人生が送れるのか? どうしてああなってしまうのか?
ダンサーからピラテスインストラクターに転身した私は、アッパー・イーストサイドに自分のスタジオを構えて、あの周辺に住む成功しているはずのお金持ち達(ニューリッチとオールドマネーの両方)の生態を研究する事になった。言っておくが、わざわざそれを目的に、スタジオのロケーションを決めたわけではなく、自然にそうなったのだ。今振り返ってみると、それも神様の贈り物としか言いようがない。
「どうしてそんなにあんた達は、自己鍛錬が出来ていないのか?」と、あまりにも集中力のないクライアント達にのたまうまだまだヒヨッコの私に、「あんたはそのうち 「アッパーイーストサイドの御婦人達」みたいな、いかに私たちが怠け者かについて本を書くと良いよ。売れるよ。」などと、ジョークを言って笑っていた。大人になって良く考えれば、その当時の私なんかに比べてずうっと彼らの方が人間が出来ていたのだ。
あの頃は私も青二才と言う言葉が本当に調度良い、お馬鹿さんだったと反省する。
彼らは、広い心を持って「私たちみたいになってはいけないよ。」と、「あんたが歩むべき方角は、こっちじゃあないよ。」と教えてくれていたのである。
(続く)