今朝この悩むという事に着いて書きましたが、追加です。
沢山の若い方が、心の中に生じた問題を見ないようにする事に悩んでいます。
問題を見て、問題解決に悩むのではなく、問題があるのは知っているのだけど、その問題がある心の状態を感じたくないがゆえに、問題自体の前段階で、悩んでいるケースが沢山あるのです。
心に問題があると体が固まりますから、この固まった窮屈さに雁字搦めになって、問題まで行き着けていないんですねえ。
これは、人生において「真の無駄」という物です。
良くドラマなどに出てくる、「無駄な足掻き」と呼ばれる状態です。とっても潔くないんですねええ。問題ときちんと向き合って苦しむのが格好が悪い、恥ずかしいと思っている人がいるようですが、この「無駄な足掻き」をしている人は、先ず落ち着かないし、言う事も論理的ではなかったり、声や態度にその押さえつけている感情のエネルギーが反映して、30、40歳、あるいは50歳を過ぎても、もとっても幼稚で格好が悪いです。
イメージ的には、水におぼれて手足をバタつかせる、あんな感じなんですねえ。自分の人生を管理できずに、アップアップしているわけです。
この心の問題を見ない事に力を入れている人たちの、陸上での姿勢はどうなるかというと、いわゆる’’胸を張る”という状態になっているんですねえ。
姿勢矯正の本の中には、後ろ重心に立つのが良いと書いてある本もあるそうですが、この後ろ重心に立ってしまった状態が、いわゆる胸を張った状態です。
大体この名前からして、後ろ重心なんですから真ん中に重心を置かないんですよねえ。では、後ろ重心が心地よい人たちが、真ん中に重心を置いたらどんな事になるんでしょう?
苦しいんですよ。自分の問題に向き合った状態になるので、悩みに触れて、苦しいんです。
この自分の中の苦しみから逃れようと、胸を張って後ろへ仰け反るんです。
でもねえ、自分の中心に重心をおいた真っ直ぐな姿勢は、とても自然で格好良いんですよ。
「人生に前向きな姿勢」、「自分の人生の問題に責任を持っている姿勢」、「問題から何かを学び成長していく進化の姿勢」、「逃げない姿勢」で、格好良いんですよ。
悩むことは格好の悪い事でも、弱い事でも、負けでも あ り ま せ ん。
悩む事は、真の大人に成長していくための正しい道であり、自分へのチャレンジなんです。そしてその行き着くゴールは、全てを受け入れる無条件の愛=神のような姿勢なんですね。
キリスト様や仏陀が、胸を張って後ろへそっくり返って、私たちを撥ね付けるような姿勢をしていますか? 大抵、緩やかな背中のカーヴとともに、私たちを包み込むような姿勢ですよ。
お寺の門の両脇にある、阿吽の像や、恐い顔した仁王様の像だってそっくり返って、鼻先 ツンなんてしていません。顔は恐くても姿勢は優しい、堂々とした存在でしょ?
皆さんは、どう思われますか?