(エゴについて1.からの続き)
でも、人間は誰も同じではないですよねえ。100人100通りです。皆違って当たり前なんですねえ。皆と違った感情を違った量で持ち、違った方法で表現するのが当たり前のはずですね。
ああ、あのスピリチュアリズム的な考え方でいくなら、勿論地球における物質的存在を超えたところの光の存在まで行ってしまえば、皆一つの光なんですねえ。
でもねえ、もう一度繰り返しますが、人間としての物体的身体の存在を有効利用して、人生(人として生きる事)を楽しむなら、自分と言う己(皆とは異なる存在)を受け入れる事も必要なんです。地球上に住んでいる限り、物体的身体の存在を、人生と言う名の下に楽しむ事がゴールですから。
「汝、隣人を愛せ」とは、キリスト教の教えですが、隣人を愛す前に自分を愛さないと隣の人を愛する事は出来ませんよ。自分を理解できずに、他人を理解する事は出来ないでしょう。だから、キリスト教は十字軍を送ったりして無理やり他宗教を信じる人々を、神の名の下に糾弾したり出来たんですよ。真の愛を持っていたら、そんな事出来ないでしょ?「汝」の前に、自分を愛してなきゃ駄目なんですよ。
どうですか?貴方はどう思いますか?
自分が空っぽで寂しいのに、あるいは寂しいから、他人(家族や子供も含む)の面倒を見たり世話を焼いたりする事で自分の満たされない気持ちを埋めようとしても、それは出来ないんですよ。出来ないというか、どんなに頑張っても、起こらないと言った方が良いかなあ?それは、そういう事が人間という自然の摂理に反しているのでしょうねえ。
私がダンサーだった時の事ですが、ラッキーにもあっちこっちに他のアーティスト達とコラボレートする仕事を沢山もらって、とっても忙しかった事があったんですよ。ニューヨークでダンサーとして活躍出来るって、その当時は素晴らしい事だったんですよ。でねえ、あまりに忙しくてふと気がついたら、自分の中身が空っぽな感じがしたんですねえ。心身共に疲れちゃってました。パフォーマンスで自分の外へ外へとエネルギーを発散してばかりいて、自分の中身を耕す事を忘れていたんですねえ。ああ、私がパフォーマンスできる材料はもうないなあって思いましたよ。
自分が枯渇していたのでは、他人に上げられる物がないんですよ。それどころか、自分の中身がマイナス状態だったりしたら、自分以外の誰かの面倒を見るという美名の下にそのネガティヴなエネルギーを、振りまいちゃったりするんですよ。気がついていますか?
自分の心身が満たされて、初めてその暖かく優しく溢れ出るエネルギーを分けて上げられるんです。
(まだ続く)