世の中には、霊感に興味のある人が沢山いる反面、毛嫌いする人も沢山います。
どちらにしても、霊感を本当に知っている人はあまりいないようです。
霊感と言うのは、はっきり言って第六感 (アニマル・インスティンクト)の鋭い物にすぎません。だから、この第六感を磨いていくと、誰でも霊感を使いこなす事ができるようになります。実は全ての人間に、霊感が備わっているのです。すごく特殊なものに感じたり、不気味に思ったりするのは、霊感についての正しい知識を持っていないからです。知ってしまえば、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感の次という程度であって、大したことはないという事がわかります。
実は、私の母がそういう人なんですね。
私が子供の頃、母は良く私の右肩越しを見て、「あんたの、守護霊様はでかい男の人(人?)で、すごく強いから、あんたは絶対大丈夫よ・・・云々・・・・。」と言っていました。何が大丈夫なのか、その頃はまだピント来なかったけど、今は解ります。
しかも彼女はその当時、鯰のように地震予知能力を持っていました。突然鼻をクンクンさせて、「あっ、地震だ!」と言うのです。でも、私を含めて3人の子供たちは「また~。」と言って、あまり相手にしないでいます。すると2時間後くらいに、ガタガタガタッと本当に地震が来た事が何度かありました。
また、彼女はその道では結構名の知れた琴弾なのですが、琴を一人で練習している時などに、霊に遭遇する事があるそうです。源平合戦を歌った琴の曲がありますが、得にそれを彼女が練習している時には、ザバーっという波の音と共に、両家の兵士が母の周りに集まってきて、彼女の引く琴を聴いてくれるそうです。私の友人が調べてくれたところによれば、琴弾きはその昔「審神者(さにわ)」と呼ばれ、神託を人々に届ける役割をしていたそうです。
人間と言うのは面白い物で、自分の知らない物は存在しない物だと思う癖みたいな物があるようです。「シークレット」だったか、「What a bleep do we know ?」だったか、忘れてしまったけど、どちらかの映画の中で飛行機を見たことのないある島の原始人は、飛行機が近くに迫ってきても、新しい鳥ぐらいにしか思わず、飛行機を知覚しないという説明があります。脳みその知識としてインプットされていない物は、機械と同様に感知しないのです。又、新しい物を受け入れる心のゆとりがどの程度あるかないかによって、それぞれ反応が違ってくるわけである。
ここで、私が面白いと思うのはこの二つの相反する態度です。
知らない事に対して、
1.恐れず興味を持って受け入れる
2.恐れを抱き受け入れを拒否する
この二つの違いに関しては、また別にブログに書いてみ体と思います。
話は元に戻りますが、うちの母の不思議な能力でお陰で、私はこの霊感を恐れる事なく受け入れることが出来たのだと思います。
五感の次が霊感だと書きましたけど、では、霊感は何処で感知するか御存知でしょうか?視覚は目、聴覚は耳、嗅覚は鼻、味覚は舌、触覚は皮膚。さて、霊感は?
霊感は、細胞と細胞の間で感じます。細胞と細胞の間は、宇宙のように真空状態になっているそうですが、全身に分布するこの真空状態の所で霊感が働くのです。
だから霊感を有効利用しようと思うなら、この細胞間にゴミが溜まっていたのでは、駄目なのです。
私たちが何かを感じる度ということは、生きている間ずっとという事ですが、この細胞壁が波動を起こします。この波動が細胞から細胞に伝わり、全身に伝わります。自分がその感覚を受け入れれば自分なりの説明がつき、受け入れなければその程度によって恐れになるか、気がつかないかのどちらかになります。
だいたい、この世の中に存在するものは、目に見えず説明のつかない物の方が、目に見えて説明のつく物より、はるかに多いわけです。多いと言うより、それは無限にあるのだと思います。目に見えない物を存在しない物と決め付けてしまうのは、目に見えないコントロールの出来ないかもしれない物に対する、コントロール・フリーク(何でも思い通りにコントロールしないと、気がすまない人)な人間の恐れです。
自分の知っている事の中だけで人生を送ろうとすれば、自然とリミットが決まってしまい時間が経つにつれて息苦しくなります。知らない新しいものに遭遇し、新しい経験をするから人間は生き生きしていられるのだと思います。新しい物事を経験する自由、それが本当の意味での自由なのではないでしょうか?
また、知らない物を恐れる事から、自分と違う物、理解できない物を排除する傾向を生んでしまうのです。それは、自分に新しい物を学ぶ余裕、経験する自由、そしてその勇気をリミットしている自分への怒りに繋がるイライラ感を生みます。こうでなければいけない、ああでなければいけない、といった考え方がそれです。結局、自分の自由を奪っているのは、そういう自分なのです。
霊感から、ずいぶん遠くへ離れてしまいましたが、霊感を毛嫌いする必要はないという事です。今、理解出来ない人は無理にする必要はありません。理解する必要が出来てきた時に、考えれば良いのです。
また憑依霊というものがありますが、憑依霊とは霊に取り付かれている本人の小我(エゴ)がクリスタライズされたものと言えます。私のクライアントの一人に、憑依霊に取り付かれる事が何かとてもスペシャルな事だと思っている人がいましたが、それは大きな間違いです。そんな物に取り付かれているうちは、本人の魂、または本質を生きる事が出来ていない証拠です。 そういう人には、「しっかりしろ!」と、言いたくなります。
そういう私だって、そういう物が見え始めた時は、すごい!と思っていた事もありました。でも、他の五感に同列だと解ってからは、そんな意識も消えてしまいました。
それから、霊感(第六感)を自分の人生のサポートとして使いこなすには、頭でいろいろな事を考えすぎているうちは、駄目なのです。さっきも書きましたが、目に見える物しか判別できない脳みそに頼りすぎているうちは、使えません。体感を磨き鍛える事によって、霊感は鋭くなります。つまり、霊感を使いこなすには、先ず地に足がついていなければ駄目という事です。
それには、まず心身一如の姿勢を体得する事です。(ここでMakiko Methodを宣伝しておきます。)
霊感というのは、私たちの人生をスムースに過ごしやすくサポートしてくれるものであって、実は人間の持つ他の機能と何も変わらないという事です。
That’s all. Nothing special. Ok?