私は、小学校2年生から6年生まで、いじめられっ子でした。東京の大都会から、田畑のあぜ道を通う場所へ、小学校2年生に上がる時に、父の仕事の関係で引っ越しました。良かったのは、初めの三日くらいで、東京から来た私が物珍しいのか、皆とても親切でした。それが日が経つにつれて、皆の無視が激しくなって行きました。I子ちゃんという、女子生徒のボスみたいなのがいて、この子に私は何故か睨まれてしまったのです。I子ちゃんの家は、私が住む父の会社の社宅である大きな団地ビルの中にありました。ですから、登校下校で必ず一緒のグループになります。 団地の庭で、遊んでいても出会ってしまうわけです。
彼女はいつも私にチョッカイを出しては、結局意地悪をして私を泣かせました。私は都会育ちで、その当時まだ自転車に乗れなかったのですが、彼女のスパルタなレッスン(ただの意地悪?)のお陰で乗れるようになりました。 初めてで、怖がる私に「大丈夫、抑えていてあげるから・・・・」といて、私がこぎ始めるとサッと手を放して、私が転んで泣くのを見て喜ぶなんていうのは、序の口でした。 私は体育は苦手だったのですが、泳ぐのは結構得意でした。ある時プールで泳いでいて溺れかけました。突然自分の身体が、下に引っ張られて、重くなったのです。たっぷりクロロックス(消毒剤)の入ったプールの水を飲んで、驚いているとI子がいじわるそうに「は、は、は」と笑って傍にいました。 この時私は、ほぼ殺意ににたような、恐ろしいエネルギーをI子から感じました。
その学年の後半には、I 子は同じクラスの男子生徒をも煽って、いじめはエスカレートしていました。ある時、私は母の編んだ赤い毛糸の帽子を被って登校しました。私がその帽子を脱ぐや、S男はそれをさらって行きました。 私は、泣きながら返してっと彼を追うのですが、彼はニヤニヤいやらしく笑って返してくれません。 クラス全員、一緒に楽しんでいるだけで、誰も助けてくれないのです。 とうとう私が無理やり帽子を引っ手繰ろうとした時です。 S男は、私の下腹を強く蹴ったのです。 私はあまりの痛さに、すっとしゃがみ込んでしまいました。 結局しゃがみ込んで泣いている私を高学年の生徒が見つけ、帽子を取り返してくれました。 その後、この生徒は彼女の母であり、私の担任である先生にこの事を言いつけ、I子はお仕置きを受け、二度と私をいじめてはいけないと、全生徒の前で土下座をさせられました。
この後、今までI子の呪縛に縛られ、自分では疑問を感じながらも仕方なく私をいじめていた連中は、反省して誤ってくれたりしました。 I子は、「ニコニコ絶交」という変わった名前をつけて、スッキリしない感じでした。 表立って、いじめなくなりましたが、チャンスがあればチクッと嫌味みたいな、やっぱり嫌な奴でした。
そして、団地の広い庭にあった滑り台で「滑り鬼」というゲームをしていた時です。狭い滑り台のトップに皆が登り、押し合いへし合いしていました。そして、彼女が突然私を押したのです。I子は、半分ふざけていたんだと思いますが、私は真っ直ぐ下へ落ちてしまったのです。滑り台の基礎になっている厚い鉄のバーを丁度枕にしたように、落ちたそうです。落ちたのは覚えていますが、どう落ちたのか、その後どうやって家へ帰ったのか、今でも全く記憶がありません。 覚えているのは、母が呼ばれて迎えに来たらしく、一緒に歩いているほんの一シーンを、なんとなく覚えています。医者には、いかなかったように思います。
その後もI子は、同じ小学校にいたんだと思いますが、記憶にありません。3~5年生の時は、あまり記憶がありません。先生がとても良かったのと、部活に入って私も少し活発になっていたと思います。
次のいじめっ子にあってしまったのは、6年生の時だったと思います。やはり同じ団地に住んでいたY子でした。彼女のお父さんと私の父は、会社の同僚でした。彼女は、何かしらに付け、私の事を「ブス」「短足」「胴長」と呼んでは、私を貶す事をほぼ趣味としていました。今回は、I子の時のように身体的に危ない目に合わされる事はありませんでしたが、執拗なネガティブな言葉の嵐に、また私はピーコ、ピーコ泣きました。間の記憶が飛んでいるにも関わらず、私の中の小学校時代のイメージは2年生から6年生まで、泣いて暮らしたように記憶しています。いじめられて、自身が持てず、暗い小学校時代でした。今の私からは、想像できないと良く言われます。