「普通って何?」を書いていて、思い出した事があります。
私が小学校2年生の時でした。東京のど真ん中からいわゆる田舎に引越し、当然学校も田んぼ道を15分くらい歩いていかなければならないようなところに転校しました。
東京生まれ、東京育ちの母は、この田舎に暮らすというのがとっても嫌だったようです。私が方言を覚えないように、いろいろ工夫していました。
そんな中で私は、その当時多くの子供たちが何か物をおねだりする時に使う、「皆もっているから、私も~」みたいな考えがなかったのを思い出しました。 そういう友達たちを見ても、私にとっては何だか宇宙人を見ているくらい自分とは何かが違う、違和感がありました。
ある時一度この「魔法の言葉」を言って見たくなりました。 そして母に、「・・・が欲しい、皆持っているから~」と言ってみたのです。 母は、「皆って誰?」 私は、「A子ちゃんと、B子ちゃんと、C子ちゃん・・・・・」。そして「それじゃあ、たったの3人?・・・」という会話だったのを覚えています。 私の方も、言って見たけどあまりピンと来ないで、いったいこれはどういう意味かと不思議に思って終わったのでした。
実際、私は皆の持っているものなど別に欲しくないのです。 何故皆が持っていると、自分も持たなければならないのか、私にとっては全く理解できない感覚なのです。
ニューヨークに長く暮らし、貧乏なダンサーとして生きていた私は、初めてフェラガモという言葉を日本に住む友達から聞かされて、それはどんなカモだろう?とまでは思いませんでしたが、何だろうと思った事があります。
フェラガモが日本で流行った頃です。 それから間もなく、イタリアにダンスの公演旅行に行った私は、当時のボーイフレンドにフェラガモの靴を買ってあげると言われて、ローマの本店に連れて行かれました。 店内は、サマー・セールの最中で、沢山の日本人観光客が買い物をしていました。 ある年配のおば様などは、ご主人を従えて5,6足分の箱を両手に持っていました。
フェラガモがどんなに価値のあるものか知りませんが、私はあの丸っこいデザインが気に入りません。私のボーイフレンドに、「こんなの要らないから、別のお店に行こう」と言ったところを、彼女のに睨まれてしまいました。
この皆と同じで安心する感覚は、日本人特有のような気がしますが、何時どのようにしてこうなってしまったのでしょう?
ニューヨークに観光で来る日本女性の中には、わざわざ新品のブランド物を身体中に巻きつけて来る人がいますが、これらの服やカバンの中に、本人の存在は埋もれてしまっています。
随分昔に、日本に里帰りをした時、青山のど真ん中にある姿勢教室で教えた事があります。
生徒さんは、全員女性。来ている服、持ってきたカバン、靴など、全てブランド物のオンパレード。 主役の自分を引き立てるための飾りとしての、ブランド物なら良いと思います。
でも、ブランド物が鎧のように本人の個性を閉じ込めてしまったり、隠してしまったりするような使い方は、全く持って本末転倒。
もう少し日本の女性たちも、本物の自信を確立しないといけません。