マーサ・グラハムのダンス・スクールに通い始めたばかりのころ決めた人生のプロジェクトがある。
「自分をアートにしよう!」だ。
ダンサーの良いところは、自分以外に何も要らないところである。何処でも、何時でも、誰の前でもパフォーマンスできる。自分のアートを表現できるわけである。ピアノやヴァイオリンが無ければダメというわけでもなく、絵画や彫刻と違って作品を作って売ったとしても、それが他人のものになるわけでもない。背負って歩かなくても良い。全ての作品とその創造経験が、自分の心と身体の中に残っていく。自分の芸術作品としての振り付けの歴史が自分の身体の一部になっていくわけだ。
それなら、ダンスの振り付けを自分の外側に創るのではなく、私そのものがアートになってしまえば良のだ。そうすれば、私の身体から出る全ての動きが、自然にアート作品になるのだから、いちいち頭で考えて振り付けをするより、この方が早いのではないかっと思った。しかも、これなら人生そのものがアートになるのだ。
また私はラッキーな事に小さい頃から、沢山の習い事をさせてもらった。母、祖母、叔母が、邦楽(琴、三味線、長唄、小唄)を教えていた事もあり、3歳の時の琴に始まり、日舞、ピアノ、バレエ、絵画(油絵と水彩)、書道。高校の時は音楽の先生に見込まれて声楽の特訓を受け、大学で演劇を学び、同好会で落語研究会に入り、大学を卒業してから写真を学んだ。 要するに、美術、音楽、舞台芸術と全てのアート・フォームを網羅してるわけである。全てのアートの基礎が自分の中にあるのだ。これを生かさぬ手はない。
感性を磨き、自然で美しい感覚を常に自分の動きの中で表現できるようになろう。「自分をアートにするのだ。」
それから私は自分の行動や動きに、とても興味を持って過ごして来た。何故私は、そのような行動にでたのだろう? どうして身体のこんな所に力が入っているのだろう? 今、私は何を感じたのだろう? と常に自問自答し、時間や場所、誰と関わったかによって自分がどう違うのかなど、気をつけて観察するようになった。
良くても悪くても自分を冷静に観察できる能力が、いかに大切かは後になって実感した。この特殊な観察力をつける事に気がつかせてくれた自分の人生に、とても感謝している。
自分をアートにするプロジェクトについては、正直言っていつの間にか忘れてしまった。 多分、それはとうとう私の一部になったのだ。
その後の私の人生は、実に素晴らしいものなっているからだ。私は本当に幸せだし、自分がとても好きだ。自分の人生が大好きだ。
まだ、この私の人生というアート・ピースは、完成したわけではない。完成するのは、私がこの地球を離れる時、つまり死ぬ時なのだ。
今、私の人生に起こる全ての事象、そしてそれに対する全ての私の反応や行動が、アートそのものである事を知っている。
それは、良くても悪くても、醜くても美しくても、全てがアートなのである。